2018年度 西洋史部会発表要旨

1.トラキア人の略奪とコテュス、ケルセブレプテス時代のオドリュサイ王国の対外関係
 
                                    広島商船高等専門学校 小河 浩

 古代トラキア世界は未開な蛮族の地とされ、しばしばギリシア人とトラキア人との間にはあまり交流がなかったと考えられてきた。事実、ギリシア系の文献史料はトラキア人を好戦的な略奪者として描写し、前4世紀に大勢力を築いたオドリュサイ王コテュスとその子ケルセブレプテスも、この延長線上で好戦的な暴君と見なされることが多かった。しかし考古学調査が進むにつれ、トラキア内部からはトラキア人とギリシア人の密接な交流の形跡が見つかるようになってきた。ギリシア系文献史料と、コテュス・ケルセブレプテス父子の実態には、大きな乖離があることがうかがわれる。本発表では、主にトラキア人の略奪の実態を考察し、そこに何らかの特質がうかがえるかどうかを明らかにする。そこから近年の考古学調査の成果とも合わせて、コテュス、ケルセブレプテス時代のオドリュサイ王国の対外関係がどのようなものであったのかを、明らかにしたい。

 
2.アテナイ法廷における伝聞証拠(アコエー)―うわさと証言を中心に―

                                           大阪大学 栗原 麻子

 ヘロドトスが、理論的考察よりも実見(オプシス)を優先したことは、よく知られている。直接的な知を尊重する傾向は、古典期の医学・哲学・悲劇等にも共通しており、アッティカ法廷でも、伝聞証言の利用が禁止されていたと考えられてきた。しかしながら、ヘロドトスは、実見(オプシス)が難しい場合には見た人から聞いた情報(アコエー)を、それも難しい場合には、聞いた人から聞いた人の情報を利用するべきだと述べている。本報告では、①前4世紀のアッティカ法廷において、法制上、伝聞証言と直接証言の区別が徹底されていたこと、②それはヘロドトスの場合と同様に、かならずしも伝聞情報を提供すること自体を斥けるものでなかったことを明らかにする。さらに、③情報源の明示を厳格に求めるアッティカ法廷において、法廷弁論家たちは、なぜ、伝聞証拠の最たるものである噂に言及しえたのか、アッティカ法廷の性格と関連づけて論じたい。

 
3.ローマ帝国東部における劇場座席碑文

                                           広島大学 大町 周平

 ローマ帝政期の劇場等の座席は、元老院議員、騎士身分、その他個々人や諸集団に、社会的地位に応じて割り当てられ、その空間は都市の社会構造の写鏡となっていた。その空間構造の把握において重要となるのが、座席碑文である。座席碑文とは、劇場等の座席に「○○の場所」と刻まれた碑文のことで、それが刻まれた場所と照合することにより、誰がどこに座っていたのか把握することできる。近年では、帝国東部の劇場等から多数の座席碑文が出土しており、その空間構造についての議論が注目を浴びている。しかし、都市中間層に焦点が当てられる一方で、その他諸集団(エイジクラスアソシエーションや戦車競技のファンクラブなど)は看過される傾向にある。そこで、本報告では、座席碑文や落書きを史料として、ローマ帝国東部における都市の社会構造について包括的に論じるとともに、都市間の比較を通して、そこから浮かび上がる各都市の特徴についても検討する。


4.コンスタンティヌス帝の保護神性再考
上智大学 豊田 浩志
我が国では、未だにコンスタンティヌスが最初のキリスト教皇帝であるという俗説が、教科書レベルのみならず研究者にさえ支持されているようである。しかしそれは、キリスト教側の執拗なプロパガンダで後付け的に醸成された幻想に過ぎない。我が国の歴史学界はいつまでこのぬるま湯で揺蕩っているつもりなのであろうか。
 本発表では、西欧においてすでに20世紀初頭から疑問視されてきたコンスタンティヌスの帰属宗教を再考する。発表者はこれまで主としてキリスト教側史料の批判的吟味でこの問題を追及してきたが、今回注目するのは、当時、宮廷修辞学者が皇帝の面前で公式披露した頌詞Panegyrici Latiniである。それらは、皇帝コンスタンティヌスが支配領域ガリアで直面していた諸課題を色濃く反映していた。考古学的知見を加味してのそれらの詳細な再検討は、キリスト教プロパガンダの虚構を余すところなく露呈させるであろう。

 
5.レランス修道院のその後
    ―修道院再建に見るレランス修道院と島の「記憶」―

                                        慶應義塾大学 神崎 忠昭

 フランス・カンヌ沖合約2キロにあるレランス諸島の修道院は5世紀から7世紀に栄え、海によって動乱から隔てられた平安の島として、ローマ帝国末期の貴族たちの避難地であるばかりでなく、ガリア本土の司教候補者たちの人材供給地として、日本の修道院史研究においても取り上げられてきた。だが、その後の歴史についてはあまり関心が向けられてこなかった。
 実際、レランス修道院は8世紀にイスラーム海賊の攻撃を受け放棄されるが、その後再建される。この海域の他の島にも修道院はいくつもあったが、レランス修道院ほど名声を継続したものはなかった。なぜ、レランス修道院は再建されたのであろうか。
本報告は、レランス諸島とその修道院をとりあげ、どのようにレランス修道院と島の記憶が生成され、さらに人々の思いや営為が幾層にも上書きされて、その「イメージ」の上に新たな修道院が再建されたかを考察することを目的とする。

 
6.中世盛期におけるポンティウ伯と教会・修道院
    ―ポンティウ伯文書を通して―

                                          九州大学 大浜 聖香子

 中世盛期における北フランスの中規模領邦であるポンティウ伯は、フランス王権の統治をまね、王権のような領域的統治を試みていた。ところでかつてルマリニエは、11~12世紀における王権と教会の協力関係を明らかにした。だとすると王権の統治をまねようとしていた中規模領邦ポンティウ伯と教会の間においても、王権と教会の関係と同様の関係が存在していたのだろうか。この問いを明らかにするために、『ポンティウ伯文書集』を用いて伯と教会機関との関係についての検討を行う。ポンティウ伯文書の最大の受益者であったヴァロワール修道院あて文書54通を用い、一方で寄進文書や確認文書に記載されている修道院の財産・諸権利の分布と、伯の財産・諸権利の分布を比較する。他方で伯の側近や文書の証人として現れる修道院の人間たちがどのような人物なのか、また修道院の院長にポンティウ伯と関係のある人物はいるのかを検討する。


 7.一三世紀マリョルカの征服と土地分配

                                           広島大学 久納 早智

 イスラーム期のマリョルカ研究は、アラビア語史料の少なさゆえに、考古学知見と、征服直後のキリスト教徒によって編纂されたラテン語史料を用いて遡及的に検討されるのがつねである。なかでもアラゴン連合王国により編纂された土地台帳である『分配記録』は、イスラーム期の定住・空間編成を再構成するとともに、征服後にそれがいかに変化したかを解明するための材料として広く用いられてきた。
 しかし、当該史料に反映された土地分配そのものが、実際にいかなる手続きや段階を経て行われたかは具体的に検討されておらず、征服を起点とした社会の変化をめぐる問題もいまなお十分に明らかにされているとはいいがたい。それゆえ、本報告では、『分配記録』をはじめとする分配関連史料を、具体的な土地分配の手続き・段階という観点から層位学的に検討し、征服にともなう社会の変化を理解するための一助としたい。

 
8.「私の外交」
    ―貿易監督官ジョン・バウリングのアジェンダと一八五〇年代ユーラシア大陸東岸
      における条約関係・帝国法の展開―

                                                  西山 喬貴

 本報告は、1850年代に清朝中国に駐在し、日本、シャムとの条約関係樹立の任を与えられたジョン・バウリングの政策形成・決定過程と、彼の主導下で制定された、とある香港植民地法の関係を分析する。これにより、条約とイギリス帝国法を中心とした国際/帝国関係の歴史的展開の一端が明らかになる。「太平天国の乱」と英清の法的境界を跨いで激化する中国沿岸部の混乱、クリミア戦争に端を発する極東での英露の対立、海軍司令官スターリングによって「勝手に」締結された日本との協定、これらの動きは、条約関係の促進を自らの使命と心得るバウリングを焦燥させるとともに、政治的・法的難問を突き付けていた。彼は、限られた軍事力と法的リソースをもって、宿願成就に向けたアジェンダを構想し、法制化していった。本報告は、この過程を跡付け、英・日、露、清、泰関係に係る諸問題の政策的連関と、法制的テキストを介した更なる国際関係の変動を示す。

 
9.イギリス海軍と工業化
    ―一九世紀中期の海軍機関科士官をめぐる動向から―

                                           広島大学 北川 涼太

 近代イギリス海軍史において、工業化にともなう技術革新への対応は重要なテーマの一つであり、汽走軍艦の蒸気機関を扱う専門家である海軍機関科士官の受容は、そのテーマの一事例として位置づけられ議論されてきた。従来、イギリス海軍は技術に対して保守的であり、機関科士官の受容にも消極的だったという見方がなされてきたが、近年では徐々にその再検討がなされつつある。他方、いずれの議論においても、出自や職業に対する認識、およびその変化といった機関科士官の実態は注目されていない。
 ゆえに本報告では、まず19世紀中期における機関科士官の状況と、その機関科士官という職業に対する認識の変化を明らかにする。そのうえで、その変化を促した要因として、海軍士官主流派の機関科士官(ひいては蒸気)に対する認識の変化、および高等教育制度の確立に着目し、機関科士官の受容をめぐってその外的要因がどのように変化していったかを明らかにする。

 
10.一九八〇年代の請願分析から見える東ドイツ社会
    ―とくに健康問題に注目して―

                                           広島大学 藤原 星汰

 請願(Eingabe)とは、東ドイツの人々がSEDや政府機関等に送った手紙のことである。それを用いて人々は、政策に対する苦情あるいは提案などを政府に向けて直に示すことができた。
 従来の請願研究では、主として「ガス抜き装置」あるいは「政策決定における意義」といった政府側の視点から考察がなされている。今回報告者は、住民の側が請願をどういった形で利用したのか、彼らにとってどういった意味を持っていたのか、という点から考察を行う。
 分析する請願は、その数が著しく上昇する1980年代の請願である。事例としては、当時の東ドイツで深刻な問題となっていた環境汚染から生じる人々の健康問題に関するものを取り上げる。この請願分析を通じて、80年代の請願の特質を明らかにするとともに、そこから垣間見られる東ドイツ社会の一側面も提示してみたい。